さすらい姉妹寄せ場路上巡業2015-2016の演出のためのメモ

: 2015年11月21日第1回目の台本前稽古を観た後で

毛利嘉孝

縁あって、恒例の年末年始のさすらい姉妹寄せ場路上巡業2015-2016の演出を担当することになった。人生初めての演劇の「演出」である。というか、実は私はこれまで演出どころかそもそも演劇の制作にも関わったことがない。すでに準備の稽古に出させていただいているが、何もかもが新鮮だ。だいたい演出とは何をする人なのだろうか? ほんとうに大丈夫なのか? そもそも千代次さん、桃山さん、さすらい姉妹の役者たちは不安ではないのか?

心配ばかりが先に立つが、心配ばかりしていても仕方がないので、まだ始まったばかりの今の段階で考えていることを記しておきたい

 

さすらい姉妹は、水族館劇場の一つのバージョンだ。けれども、水族館劇場の最大の魅力でもある劇場のスペクタクル性が一切ない路上演劇で、千代次さんのイニシアティヴもあり、役者は同じかもしれないがやはり別の芝居として考えた方がいい。

なによりも重要なのは、これが寄せ場で催される路上演劇であるということだ。その想定しているお客さんは年末年始寄せ場で過ごす人々である。このことは強調してもしすぎることはない。

私が今回演出をやや戸惑いながらも二つ返事で引き受けたのは、水族館劇場のファンであることもあるが、むしろこの事実が大きい。私自身が年末年始の寄せ場の路上演劇にどういう形で関わることができるのか。今回求められている演出とは、単に劇の中身を考えることではなく、それを取り巻く関係性を考えて、自分なりに再構築してみることではないのか。

水族館劇場にしてもさすらい姉妹も、桃山邑さん、そして千代次さんや風兄さんをはじめとする役者たちが、演劇界の中でもかなり特異な舞台を作ってきた集団である。そこで演劇経験ゼロの私が「演出」できることは、いずれにしても限られている。

とすれば、これまでの蓄積と財産を最大限活用させてもらいながら——つまりはこれまで私が一観客として経験したことを継承しながら——何かを付け加える、再文脈化する、同じ演劇でも違う見え方を「演出」するというのが現実的なアプローチだろう。

では何を再文脈化するのか?

 

まず一つ目。こんにちの寄せ場をどのように文脈化できるのか。寄せ場を取り巻く問題は少なくない。産業構造の変化、高齢化といった日本社会全体の問題に加え、恒常的な抑圧や排除・差別、行政の不作為や無理解、メディアの無視と怠慢、一方的に進められる都市開発など寄せ場固有のさまざまな要因が絡まり合って、寄せ場では危機的な状況が常態化している。

しかし、これは寄せ場だけの問題ではない。情報環境の変容もあり、かつて寄せ場に集中していた過酷な労働環境が、今では全国さまざまな空間をじわじわと浸食しつつある。日本全体が寄せ場化しているかのようにも見える。

そして、それを支えるかのように新自由主義的な強欲資本主義と排外的なナショナリズムが手に手をとって、まるで放射能のように目に見えない形で日本を覆っている。フリーター、ブラック企業、安保法制、福島原発事故、沖縄基地問題、グローバリズムといった問題もまた寄せ場とは無関係ではないのだ

もちろんいたずらに問題を一般化すべきではない。けれども、もう一度あらためて現代日本を取り巻くさまざまな問題の中に寄せ場を位置づけることは急務だろう。こうした文脈化を私なりに考えたい。

二点目。さすらい姉妹/水族館劇場を演劇、あるいは広く日本の芸術文化の中でどのように文脈化できるのだろうか。

その圧倒的な動員力にもかかわらず、水族館劇場やさすらい姉妹が、現在の演劇や芸術文化の文脈の中で語られることは不当に少ないように思える。もっとも桃山さんや千代次さんにとっては、実際のところそんなことはどうでもいいのかもしれない。だが今の演劇や芸術文化の中で、さすらい姉妹/水族館劇場のような芸能、あるいは政治的な文化実践の語彙があまりにも貧しいことは、どうして気になるところだ。

日本の芸術文化が、海外と比較して政治的な言説を回避する傾向にあることはしばしば指摘される。しかし、このこと自体が日本の芸術文化全体に対する一定以上の強大な抑圧がかかっていることを意味している。芸術と政治は関係ないとうそぶく言説が、一種の「洗脳」から生み出されているのではないか?

そして、このことは、こんにちさすらい姉妹/水族館劇場がかろうじて維持している「芸能」という領域が日本の中で不可視化されつつあることとも結びついているのではないか?

 

三点目は、先の問いと結びついている。それは観客性の問題である。日本の演劇のほとんどは、あるいは再び文化芸術のほとんどは、と言ってもいいかもしれないが、「市民」と名付けられたミドルクラス的な感性をもった観客に向けて作られている。そして、知識人であれ評論家であれミドルクラス的な感性と価値観をもった人々がそれを評価・分節化し、言説の体系を(再)生産している。芸能は、このミドルクラス的な、市民的な価値観に叛旗を翻す。芸能を作り出すのは誰なのか。そして、芸能を楽しむのは誰なのか。こうした問いは、私たちが「演劇」や「文化」、「芸術」として了解しているものの根本的な基盤を揺るがせる。

このことは、役者と観客、そして演劇作品との関係を再考することを要求しているように思える。演出とは、ひょっとしたらその関係を(再)編成することではないのか。さすらい姉妹の路上公演はこうした問いを考える重要な機会である

 

上記の問いは、もちろん暫定的なものだ。実際に制作作業が進むにつれて、こうした問い自体が、頭でっかちの、頓珍漢なものとして頭の片隅に追いやられるのかもしれない。けれども、まだ始まったばかりだからこそ、あえて青くさい問いを立てておきたいと思う。

備忘録的に——

(劇場のなかで)パフォーマンスの前にいるのは、美術館や、学校、あるいは街頭においてとまったく同様、結局個人たちでしかない。そこで彼らは、自分たちに向けられ、自分たちを取り囲んでいる事物、行為、そして記号からなる森のなかで、それぞれ自分の道を進んでいくのである。観客たちに共通の能力は、彼らがある集団の構成員であるという資格からくるのでもなければ、何か特別な形の双方向性からくるのでもない。それは、各々が各々のやり方で自分の感じ取るものを翻訳し、それを特異な知的冒険に結びつける、誰もが持っている能力である。この知的冒険は、それが他のどんな知的冒険とも似通っていないかぎりで、各々を他のあらゆる者と同類にする。
ジャック・ランシエール『解放された観客』梶田裕訳p.22-23