さすらい姉妹寄せ場路上巡業2015-2016の演出のためのメモ(追記)

2016年1月2日公演を終えて

毛利嘉孝

さすらい姉妹寄せ場路上巡業2015-2016『ぢべたすれすれバッタもん』の公演が終わった。3日間で5公演(山谷、新宿、横浜寿町、上野、渋谷)とハードなスケジュールだったが、とりあえず大きな事故もなく終了し、ほっとしている。会場ごとにお客さんの雰囲気もずいぶんと異なったが、総じて好意的に受け入れられたのではないか。記憶もまだ生々しいうちに、少しだけ感想めいたものを書き留めておきたい。

以前Fishbone Onlineにも書いた通り、今回〈演出〉という肩書を与えられたが、もともと水族館劇場/さすらい姉妹は、アイデンティティも方法論もきちんと確立している劇団だ。桃山邑さんの饒舌な脚本と千代次さんや風兄宇内さんを初めとする個性豊かな役者さんたちが揃っていれば、私がいようがいまいがある程度自動生成的に作品が完成する仕組みがすでに整っている。したがって、私が関わった演出が限定的なものだったことは最初に断っておきたい。

面白かったのは、私が〈演出/工作〉という肩書で関わっていたために、初めて水族館劇場の芝居を見た人の中に、いわゆる舞台美術や照明などステージの美学的な演出を担当したと思った人が少なからずいたことだった。実際には、舞台美術や照明、さらには煙等の舞台美術・演出的な仕事はそれぞれ責任者がおり、私は最終的にまとめる役割を担当したにすぎない。たとえばダンボールで背景の工場を作ろうという舞台美術を考えたのも私ではなく、役者たちの発案であり、実際に作ったのも彼らである。舞台の美術的な演出については、私はそれを追認しただけだ。でも、この部分については、いつもどおりすばらしかったと思う。

唯一私が舞台演出的な作業をしたとすれば、横浜寿町の公演に大熊ワタルさんと服部夏樹さんの「ジンタら兄弟」に導入の音楽を無理言ってお願いしたことだったかもしれない。特に元旦の公演でもあり、生楽器が奏でるどこかユーモラスな哀しい響きは、お正月の華やかな雰囲気を鮮やかに演出していた。

私が行った作業は、もっぱら上がってきた台本を見ながら、それを解釈し、それぞれの役者に一種の輪郭を与えることだった。あるいは、全体を眺めながら、この作品全体のテイストというか雰囲気というか、物語の流れを整えるというのが最大の作業だったと言うべきかもしれない。

強いて〈演出〉らしいことといえば、まだ方向性が決まる前の最初の稽古の時に、二つのことを桃山さんと役者にお願いしたことだった。一つは、これまで水族館劇場/さすらい姉妹で演じたことがないけれども、演じていたいと思った役柄をやってほしいということ。もう一つは与えられた役を、大袈裟に、できるだけ過剰に演じてほしいということである。

けれども、その企図についてはあまり説明をしたわけではない。というのも、最初にあまりディレクションをしすぎると劇全体が一定の方向にまとまってしまって、重層性や両義性を失ってしまうと考えたからだ。役者は訝しく思ったかもしれない。けれども、結果的にはそれなりにうまくいったように思う。

今回、最初に考えたのは、ホンモノの大衆演劇ではなく、ある種フェイクの(今回のテーマを借りれば〈バッタもん〉の、というかニセモノくさいというか)大衆演劇を制作するということだった。一般に〈大衆的〉と信じられていることをあえてなぞることでその〈大衆なるもの〉の虚構性を見せたかったのだ。できるだけ大袈裟に演技をしてほしいというのは、そのための下地作りだった。今回は引き受けた時から私の方から喜劇をやろうと提案したのだが、演技のリアクションも普通にテレビで流れている新喜劇的なドラマの手法をそのまま取り入れてみた。

けれども、どれほど〈普通〉の大衆演劇を目指しても、桃山脚本と役者の個性がそれを奇妙なものへと変容させてしまう。むしろ、過剰な演技のためそのねじれは逆に強調されてしまう。それは一般に流布しているマスメディアを媒介とした〈大衆〉演劇に対する批判的な視点を提供するのではないか。最初にこの〈演出〉を引き受けた時に、何となくそういうことを考えたのだ。実際に演出以前に桃山さんが書いた台本がそのあたりを丁寧に拾っていた。この企図については、ある程度成功したのではないかと自負している。

今回の隠れたサブテーマは、大衆演劇のジェンダーの問題を前景化することでもあった。それは、大衆演劇におけるクィア(queer)の問題を考えるということでもある。クィアとは、通常は〈おかま〉とか〈変態〉と訳される語であるが、転じて異性愛主義的でヘテロなジェンダーやセックスの権力関係を転覆する理論の柱として、1990年代以降人文学の中に導入された議論で用いられるようになったLGBTの文化政治のキーワードである。

主人公の千代次さんが、髪結新三という男役を演じるということが決まって面白いことになったと私は思った。男役というのは、初めての試みらしい。男役ではあるが、実際には女性の「男装の麗人」にもみえる。もちろん、こうした異性装は宝塚歌劇団や歌舞伎を挙げるまでもなく、大衆演劇では決してめずらしくはない。しかし、宝塚や歌舞伎の中では制度化されている異性装を、再び路上に持ち込んだことにより、その性的な両義性は別の輝きを帯び始める。

美少女駒子と新三の許されない恋は、物語を貫くレズビアン的な関係を示唆している。これは、駒子とヤクザの姉崎とのあからさまに異性愛的なマッチョな(しかも成就しない)恋愛に対する批判でもある。これに加えて、年齢性別不明の天才エンジニア、偽造は、〈天使〉のような存在として、演劇の中の性的な秩序を錯乱させる。これは演出側の妄想かもしれない。これが実際にどのように観客に受け入れられたかは逆に反応を聞きたいところだが、今回の『バッタもん』の人工的なダブサウンドの通奏低音を形成していたように思う。

これが、水族館劇場の通常公演のように、入場料を取って閉じた空間で演じられる作品であれば、お客さんを一定程度均質な集団として想定することができる。けれども、さすらい姉妹は、路上の公演ということもあり、多種多様な観客に囲まれている。たまたま通りかかった人や演劇に興味のない人も見ているかもしれない。もちろん、だからといって手を抜けるわけではない。

あらかじめさまざまな介入が想定されたので、当初からあえてタイトに作らず、お客さんの介入や対話、やり取りを前提に考えていた。セリフが飛んでも、慌てずに対応する仕組みだけを作っておけば、場の力がなんとかしてくれる。

実際、ほとんどの会場で、笑いやヤジ、過剰な感情移入や悪意のない介入などが入り乱れて、しばしばカオス的な状況が生まれたが、その混乱をさすらい姉妹の役者はすべて、自らのエネルギーへとうまく変換していた。これは、演出というよりは、むしろ演出の彼方で起こった出来事でもあったが、今回に関してはすべて予想よりもはるかにうまくいったように思うーーまるで〈演出〉されていたかのように。

ということで、人生初めての演劇の〈演出〉は、さすらい姉妹の役者やスタッフのおかげで、破綻することなく終わることができてとても嬉しい。いや破綻していたのかもしれないが、気がつくことなく終わったのを喜ぶべきか。いずれにしても、今回の舞台となった佃製作所の最大の製品は〈バッタもん〉の演出家である。

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