芸濃町にどうして水族館劇場の旗が立つことになったのか?

伊藤祐作

明日18歳になるという、昭和43(1968)年2月24日、一旗揚げようと芸濃町椋本(むくもと)の地を発ったとき、48年後の平成28(2016)年5月に、その椋本の地で水族館劇場の小屋掛け芝居をするようになろうとは、私も、また町の人たちも誰も予想してはいなかった。
だが、こうなることは、どうやら天命だったようである。

 

 

水族館劇場との出会いは25年前に遡る。
私が2000年から10年間連載した『映画芸術』の“2000年にアングラ芝居を探して”の連載第1回目(2000年夏号)「アングラ芝居の王道」の中で、こんなことを書いている。

寺山修司の「家出のすすめ」にアジられて上京。早稲田にもぐり込み、寺山のすることは何でもしてみようと、短歌を作り、芝居に興味を持って、ハタと気がつけば三十数年がたっていた。(中略)
これまで三十数年間観てきた芝居の中で、今スグに思い起こせる劇的シーンを三つ挙げろといわれれば、一つは、上野・不忍池で観た「状況劇場」紅テントの芝居で大久保鷹が背中に机を背負い池からズブ濡れで登場したシーン。
二つ目は「天井桟敷」の市街劇。紀伊国屋書店前で地図を受け取り、その地図を頼りに、四谷あたりのアパートを訪ねると、今思えば、あれは鈴木いづみだったろうと思える女優が演じる労咳病みの娼婦が蚊帳の中にいて「わたしを抱いて」とせまってくるシーン。
そして、もう一つは、十年近く前に観た「水族館劇場」。舞台が瞬時にくずれ落ち、すさましい量の水が噴き上げるスペクタクルなラストシーン。

また、その年の冬号、連載第3回目で「今が旬!水族館劇場」と題して、次のように綴っている。

「水族館劇場がおもしろい」
いつの頃からか、ボクは芝居の話をするとき、こういうようになっていた。(中略)いまから十年ほど前、杉並区のお寺の境内で水族館劇場を観た。その芝居のタイトルも忘れたし、話のストーリーも今はもう思い出せないが、最下層に生きる人々の物語でそこで描かれる世界は、ボクには何故か無性になつかしかった。ラストで舞台がくずれ、天高く水が噴き上げるシーンは、美しくかつ感動的だった。(中略)昭和にこだわり、棄民にこだわるこの劇団の芝居をアングラではなく、アナクロだという人がいることも知っている。しかし、その芝居を観ているとき、どこのどんな芝居を観ているときより心が安らぐ自分がいた。と、いうことは、ボクも、とんでもないアナクロ人間!? だが、去年亀有名画座の閉鎖公演をやったあたりから、水族館劇場のスタンスがいささか変わってきた。
世の中の動きと、水族館劇場が描く世界が妙に一致し始めてきたのである。そして、森首相が「神の国」発言をした、そんな矢先の「廃墟の森のディアスポラ」(作・演出 桃山邑)。
昭和にこだわり棄民にこだわり、時をさまよううちに、アナクロが旬になった。(後略)

ディアスポラというのは「離散」という意味である。
私が心安らぐ芝居を観たと、書いている演目は2013年に桃山邑氏の編で出版された『水族館劇場のほうへ』(羽鳥書店)の上演年表に照らし合せると1990年に東京・高円寺、堀之内妙法寺駐車場での「GETDOWN IN THE DARKNESS 漂流都市[亜細亜の戦慄 第四部]」である。
ちなみに私と、そんな水族館劇場が急接近するのは一昨年、2013年の夏。
この年は、昭和を代表するストリッパー、一条さゆりの17回忌の年だった。

 

 

その話の前に、ここ10年の私の生きざまを記しておこう。文筆業を生業として寺山修司の書いた“トルコの桃ちゃん”を探す旅を続けてきたが、55歳になって、その過程をキッチリ整理しておこうと、法政大学の大学院に社会人入学し、2009年3月「戦後の娼婦小説の系譜と寺山修司の娼婦観」というタイトルの修士論文を書いて修了。2010年、還暦の年に、この修士論文を含めた『私は寺山修司・考 桃色篇』(れんが書房新社)を上梓。この年からハーフターンと称して、東京(都)と故郷の三重(鄙)とを行ったり来たりする生活を開始する。それは、私的には、どう生きていくかの旅から、どのように死んでいくのかの旅への転換を意味していた。

翌2011年3月7日、母死亡。11日東日本大震災。故郷、絆が日本中で盛んに語られるようになる。だが私にとって、故郷とは東北のことではなく私が生まれ育った三重のことであり、絆とはその故郷の人々との関係を意味していた。5月、津あけぼの座で流山児★事務所公演『夢謡話浮世根問』(北村想・作、小林七緒・演出)の勧進元になり、私の大好きなアングラ芝居を、故郷で上演する試みに着手する。そして、それが2013年へとつながっていく。

 

 

ストリップのプロデューサー、ジョージ川上氏から一条さゆりの17回忌を、彼女が亡くなった大阪・釜ヶ崎でやりたいが、何かいい知恵はないかという相談を受けた。水族館劇場の別働隊である「さすらい姉妹」が一条さゆりの物語を『谷間の百合』(作・演出 桃山邑)として上演していることを知っていた私は、そのことを川上氏に伝えた。そして2013年8月3日の釜ヶ崎での上演が決まる。一条さゆりといえば思い出すのが、彼女のことを小説に書き、その売出しに尽力した作家であり、中国文学を教える大学教授でもあった故駒田信二氏。この人は、芸濃町多門の出身である。ならば、津でも上演しよう。こうしてこの年の7月31日、津あけぼの座スクエアで『谷間の百合』を上演し、前述した『映画芸術』での私の水族館劇場評を読んでいてくれていたという桃山氏と気脈を通ずる仲となる。

帰京し、桃山氏と津での公演のお疲れ会を催したとき「今度は三重県で、水が噴き上げる水族館劇場の本公演をしたいですね」と、酔いにまかせて口走った。そのとき私の脳裡には、芸濃町の雨乞いの行事をテーマにした水族館劇場のスペクタクルなラストシーンが思い浮かんでいた。しかし、この話は酒席での与太話で実現性は極めて低いものだと両者で確認し、私は、その後10月8日、9日同じく津あけぼの座スクエアでの、流山児★事務所公演『花札伝綺』(寺山修司・作 青木砂織・演出)に集中し、この公演を多数の観客に観てもらい成功させる。

さて次、何をしようか?

2014年以降の津での芝居興業計画の参考にしようと、上記3本の芝居を観てくれていた、中学校の1学年下、バレー部で一緒に頑張った駒田製瓦所社長の駒田仁志氏に、その感想などを聞きたくて会った。そのとき仁志氏が、我が故郷の椋本神社で3年に一度、正月に執り行われる獅子舞の保存に力を注いでいることを知る。同時に獅子舞の存続が後継者不足で危機的状況に陥っていることを聞かされる。少年時代、獅子舞の後をついて廻ったことが甦ってきた。口取りの“タンタンシュ、タンタンシュ”という音が耳底から聞こえてもきた。今は東京の芝居を津へ呼んでいる時ではない。椋本の獅子舞を何とかしよう、そう思った。

芝居をする友人も多いが、映画に携わる友人も少なくない。
東日本大震災以降、宮城県の石巻に入り、ドキュメント映画を撮っている青池憲司監督のことを思い出した。『琵琶法師 山鹿良之』というドキュメント映画を撮り、阪神淡路大震災以降はコミュニティの絆に重きを置いて映画を撮っているドキュメント映画の監督である。椋本の獅子舞もその切り口で撮ってもらおう。そう決めた。

2014年5月28日、水族館劇場『Ninfa 嘆きの天使』を三軒茶屋 太子堂八幡神社境内で観る。その時の「Fishbone 水の通信」64号に桃山氏の友人である金田恒孝氏の「伊那谷の祭り考」という一文があり、そこに産土神についての記述があった。

うぶすな神は、そこで生まれたいのちがその地を遠く離れても、地を離れて守り続ける、言い換えれば、働きが地に縛られない神である。

目から鱗であった。私は椋本神社の産土神に守られ、故郷を離れた40数年間、元気に過ごせてきたのである。その感謝の意味においても獅子舞映画を完成させよう。私の決意は確かなものになっていった。

7月20日、椋本神社祇園祭。青池監督を椋本に招き、映画作りはスタートした。秋、映画で芸濃町を紹介するために『芸濃町史』を読む。その過程で、2016年が芸濃町になって60年になることを知る。また日本に「げいのう」という地名は津市芸濃町だけだということが解る。「げいのう」という、この地名でもって町おこしが出来るのではないか? “町の名も、また財産である” そんなフレーズが、脳裏を走った。

2015年正月元旦、獅子舞のクライマックスシーンを撮り、2日青池組椋本を去る。3日、私も帰京し、水族館劇場「さすらい姉妹」の『un ga yokerya』を上野・科学博物館前広場で観る。このときの案内に“水族館劇場は長い活動停止状態に入りました”と記されていた。終演後、桃山氏と一杯酌み交わし、2015、2016年に本公演がないことを知る。

何もないところに小屋(劇場)を建てて芝居をする“小屋掛け芝居”は芸の濃い芸能である。芸濃町に打って付け! 2015年は獅子舞映画の上映会などがあり無理だが、2016年なら‥‥。芸濃町が60歳になる2016年に、水族館劇場の“小屋掛け芝居で芸濃い祭”という企画が、私の中で浮上した。

どんな芝居をやってもらうのか? 雨乞い? いや、それより、文久2(1862)年の日照りが続いた年に一念発起して、椋本に横山池を作った駒越五良八翁の物語の方がいいのではないか。安濃川から灌漑のために水を引き、池を作った物語なら水のスペクタクルを得意とする水族館劇場に似つかわしい。そう思い、幕末から明治の時代の椋本の歴史の勉強に取り掛かった。慶応2(1866)年工事期間5年、工費二万両、人夫数十万人を掛けて、横山池は完成する。ちなみに椋本出身者で、この頃注目を集めていた人がもう一人いた。明治14(1881)年に、製茶輸出会社を起こし大成功した人物で、明治28(1895)年に47歳で亡くなった駒田作五郎氏である。

椋本を離れて40数年、初めて知ることも多く、郷土史の学習は面白かったが、これだけでは桃山氏に椋本で水族館劇場の“小屋掛け芝居”をしてほしいとはいい出せない。

 

 

2月10日、獅子舞映画で春日井建氏の詩を、早稲田短歌会の先輩で短歌絶叫歌人の福島泰樹氏に詠んでもらうことになり、吉祥寺のライブハウス『曼陀羅』で撮影する。このとき、何故この映画を作っているのかと福島氏に聞かれ「故郷への恩返しです」と答える。2月末、獅子舞映画『獅子が舞う 人が集う』完成。6月21日、芸濃総合文化センターホールでの、上映会が決まる。

この時期にさまざまな出会いがあった。実は、私が寺山修司に煽られて故郷を出たこと知る高校の恩師から、私の2学年下に、同じようにして「天井桟敷」に走った生徒がいたと知らされ、機会があったら会ったらどうかと勧められて連絡先を教えられていた。前述した『花札伝綺』の公演の時に、連絡を取った。名古屋の出版社『人間社』の代表・高橋正義氏である。寺山修司の取り持つ縁というのだろうか、意気投合した。私が何にこだわり、どんなものを書いてきたのかを知った高橋氏は、私に、昭和初年の伊勢志摩のことで一冊、本を書かないかといって、さまざまな資料を提示してくれた。その資料には谷崎潤一郎、竹久夢二、江戸川乱歩などなどの名前が飛び交っていた。椋本の幕末から明治のことを勉強している時期と重なっていたことが、幸いした。私は、奇想天外な夢を見て、とんでもない発見をする。

昭和初年に江戸川乱歩が『新青年』に連載した『パノラマ島奇譚』で、主人公の人見廣介が入れ替わる旧友の名前は菰田源三郎。M県T市の出身で大富豪、若くして亡くなっている。そして、『パノラマ島奇譚』では、自然の島を大改造するのである。M県T市とは三重県津市に他ならない。駒田作五郎VS菰田源三郎。人工の溜池・横山池VS人工の楽園・パノラマ島。

椋本の駒越五良八翁の横山池造成工事と駒田作五郎氏の話を下敷きに江戸川乱歩が書いたのが『パノラマ島奇譚』である。私はそう確信した。この横山池とパノラマ島の話を虚実皮膜の作劇術を駆使して水にまつわる桃山ワールドにしてもらえば、芸濃町の還暦祝いにふさわしい芸濃い芝居になる。

 

 

さまざまな出会い、偶然は、天命であった。こうして2016年5月、江戸川乱歩の作品が没後50年で著作権が消滅した次の年に、津市芸濃町椋本に水族館劇場の幟(旗である)が立ち、芝居小屋が姿を現すことになったのである。

尚、江戸川乱歩は御存じのように三重県の出身である。念のため。