この世界の片隅で嘘を叫ぶ。

小二田誠二

2015年6月19日。存亡の危機を囁かれた水族館劇場は、追われるように東京を離れ、静岡に流れて来た。ビルの中のライブハウス、フリーキーショウでの公演『黒船前後』は満員札止。テント芝居で見られる桃山流詰め込み術を駆使してもぎっしり。巨大なテントの大スペクタクルでも、路上の青空芝居でもなく、しかし、普段のフリーキーショウがこんなになるのか、という、やはり桃山マジック。

『黒船前後』は古典落語をベースに、体制とはおよそ縁の無い下層民の蠢くなかに、北斎の娘阿榮と土佐の絵金、江戸を追放された市川團十郎までが絡み合う、まさに虚実入り乱れての幕末絵巻。世の中が大きく変わろうとする中で、下層の人たちの暮らしに変化は無いように見える。しかし、波は確実に押し寄せてくる。「天下国家の一大事?おいらたちには関係ねえよ!」というキャッチフレーズがあったけれど、実のところ、天下国家の変動は、我々の暮らしにも案外大きな影を落とすのかもしれない。

ところで、公演の前、「前狂言」と称して静岡大学で毛利嘉孝・桃山邑対談が行われた。こちらのタイトルは「この世界の片隅がもうすぐなくなるのだとしても」である。黒船来航前後の世界、琉球、日本の情勢など、芝居の予習と見せかけつつ、過去と現在とを縦横に行き交うスリリングな議論であった。

路上とテントの演劇が、どう学問の世界と繋がってくるのか。毛利さんは、アカデミズムを「現場」で考える人。「歴史」を材料にした路上芝居と現代とが切り結ぶ。

司会を仰せつかった私は難しい話にはついて行けないのだけれど、この虚実入り交じったあわいに発生する何か、については一言あり……。まとめの代わりに、ちょうど手元にあった久しぶりの校正刷りを少しだけ読んだのであった。今、改めて、そこだけ引用しておこう。

最後に、私が実録研究に足を踏み入れる、もっとも大きなきっかけになった一節を引く。
「個としての怨恨であれ、集団としての怨恨であれ、文学からも歴史からも、せめ残されたリザーブこそ重い。その意味では反歴史であり、反文学でもあるものこそが歴史文学なのである。反真実であり反虚構であるものとよみかえてもよい。」
松田修は『複眼の視座』に収録された同題の論考をこう締めくくり、最後にコクトーの「神話とは究極において/真実となる虚偽である。」という言葉を引いて終わる。この指摘は、文学も歴史も、真実も虚構も、すべての自明性が問い返されるべき今こそ、重い。

たまたま手元にあった校正刷りから引用した、とはいえ、自分の文章で『複眼の視座』を引用したのは、正月に桃山さんと雑談したのがきっかけだった、と思う。にしても、実は『黒船前後』台本の扉に、コクトーの同じ一節が書かれていたことは知るよしもなく、三人は顔を見合わせしばし絶句したのであった。これは、まったく予期しない話で、さほど多くない聴衆には、更に何のことか理解できなかったに違いない。

それはさておき、本題はここからである。

ジャン・コクトーの「神話とは究極において/真実となる虚偽である。」というのが、どういう文脈で発せられたのか、私は知らない。ただ、私にとって、歴史も、事実も、虚構だった。この対談の後に、その拙稿が掲載された『文学』誌7・8月号は刊行されている。そこに私が書いたのは、江戸時代、享保年間に起こった吉宗御落胤詐称事件、天一坊一件の実録『天一坊実記』の魅力について、だった。事実がどうか、ではなくて。

話が先走った。「実録」という「文学」のジャンルについて、少し説明が必要だろう。

江戸時代、現代で言うところの「報道」は存在していない。ニュースは噂のようなものであり、あるいは物語のようなものであった。公的な発表は瞬く間に全国に拡散される仕組みが整備されたが、事件情報の流通は、ほとんど芸能や文芸の領域だったと言って良い。「正しい」情報を流通させることを禁じられたプロの表現者たちは、一定のコードに従って情報をゆがめる作法を身につけた一方、非合法、或いは、支配の及ばないメディアでの情報流通は、多分に思い込みをはらむことになる。それは、現代から見れば、「虚構」なのであるけれど、当時その情報を共有し、流通させた人達は、「嘘」をついていたのか、と言えば、多分そうではない。

こう書くと、なにか魅力的な物語の発生を想像しそうになるが、一部のよく出来た「作品」を除けば、実録は、「文学として読むに堪えない」ものであり、「歴史書としてはまったく検証に値しない」ものである。まさに、文学からも歴史からもリザーブ:棚上げされてきたものたちである。その、荒削りで、読むに堪えない嘘っぱちの中にあるのは「真実」だ、と言えば、それも聞こえは良いのだけれど、多分それほど単純でも無い。そこにあるのは、「願望」だろう。権力者の作る「正しい歴史」にしたところで、必ずしも「科学的」とは言えない。正史か稗史かという問題でも無く、どういう人達が、それを持ち伝えるのか、ということにかかっている。結局のところ、信じたい事実を共有できる集団が、それを「真実」にするだけのこと。だからこそ、この、事実の表現の在りようには興味が尽きないのだ。

その「願望」は、必ずしも「理想」というわけでもない。時には、現に起こっていることよりも更に悲観的でさえある。その表現者、受容者たちが共通に持つ現実認識であり、それは時に自虐的で投げやりにならざるを得ない。

 

文科系の学問について、何だか騒々しい。何かの役に立っているんだろうか。権力者が恐れるほどの力を持ち得ているだろうか。そもそも、そんな大それた事を考えて学問やってたっけ? 「おいらたちには関係ねえよ!」。

そんなことを言っているウチに、我々の「世界の片隅」は、無くなってしまうのだろうか。無くなって欲しくは無いが、しかし、いっそ跡形も無く消えてしまえ、と思わなくも無い。稗史も、芝居も、学問も、誰かの役に立つのかも知れないし、そうであれば良いと思う。しかし、しかし……。