さすらい姉妹日録

『黒船前後』見聞録

長瀬千雅

その1

 

よく「第◎期××××」という言い方があります。「前期マイルス」とか、「第2期ディープ・パープル」とか。「バンドからソロプロジェクトへ」とか、「充電期間を経て再始動」とか。つまり活動のフェイズが変わる、その節目は必ずやってくる。

いまの水族館劇場が第何期にあたるのかわかりませんが、現在を第n期とすれば、それは2015年6月の静岡公演から始まったのではないかと思います。

 

水族館劇場に、というか、お芝居自体にあまりなじみがない(けどちょっと興味ある)というひとに説明すると、公演にはいろんなやり方があって、劇場やホールを借りて自分たちでチケットを売って上演する以外にも、プロデュース公演のようなかたちで国立・公立/民間の劇場に招かれて作品を作ったり、宝塚や劇団四季のように自前の劇場を持って年間通じて上演するところがあったり。予算規模もさまざまです。

水族館劇場は「小屋掛け芝居」といって、自分たちで芝居小屋を建てて、そこでお芝居を上演します。小屋といっても、本公演の小屋は、写真家が建築雑誌の連載のためにわざわざ撮影にくるぐらいの建物です。http://shikanoyasushi.com/galleryB/suizokukan/suizokukan2013/index.html)。これだけのものを作りながら、公演が終わればあとかたもなく取り壊されます。はかない。「テント芝居」と言ったりもしますが、テントって畳まれることを前提としているじゃないですか。そこには「昨日まであったあの建造物が今はもうない」というなんとも虚ろな気分が欠けているような気がして、個人的には「小屋掛け芝居」と言うほうがしっくりきます。

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「それってアングラってやつ? よくわかんないしなんか怖そうだから近づきたくない」と思ったあなた。アイドルと同じように(時にはそれ以上に)地下アイドルが人気を博す時代、「地下」の意味なんてどんどん変わっているのだ。アンダーグラウンドもオーバーグラウンドも、どっちも見たらいいじゃん!

現に私は、そういうミーハーな観劇方針のもといろんなお芝居をふらふらと見て歩いている時期に、偶然に水族館劇場と出会ったわけです。そして、知っている人はよく知っている水族館名物水落としを、「どわーーーすげーーー!」と口をあんぐりあけて見ました。

 

今思えばそれは、n-1期が終わりを迎える頃でした。小屋掛け芝居には小屋を掛ける場所が必要です。当時水族館劇場は、東京の三軒茶屋にある太子堂八幡神社を根城とし、初夏に約2週間の公演をしていました。それが続けられなくなり、2014年の千秋楽、桃山邑さんから客席へ、「八幡神社の境内を離れる」と告げられたのです。

根城を失った水族館劇場は、活動休止に入りました。

その2

 

活動休止宣言から約1年後の2015年6月19日、水族館劇場は静岡のライブハウス・FreakyShowで一夜限りの公演を行いました。歓楽街の朝8時。両替町のそれほど広くない道に2トントラックが入ってきます。雑居ビルの前に停まるや荷下ろしが始まる。障子の破れた長屋の戸、発泡スチロールでできた岩、照明機材、衣裳の入った風呂敷、道具箱、数十本の単管パイプ。階段とエレベーターをフル稼働させて、次々に5階へと運びます。私も手伝おうとしましたが足手まといになるばかりなのであきらめて、エレベーターホールに突っ立って、目の前を次々に行ったり来たりする役者たちの姿を追っていました。ふと目を上げると「劇場版テレクラキャノンボール」のポスター。カンパニー松尾もここにきたんだなー……。

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ミュージシャン、スポーツ選手、会社員なら産休・育休、世の中にはさまざまな「活動休止」がありますが、休んでいる1年間が実際のところどれくらいの長さなのかは、当事者にしかわからないのだろうと思います。

だから、劇団員の心中を正確に知ることはできないのですが、水族館劇場の活動休止を聞いたときに私が思ったのは、帰る場所を失うとはこういうことなんだなあ、ということでした。というか、そもそも帰る場所を持たないのが水族館劇場なのか、と気づく。やっぱり私は「旅一座」というものが本当にはわかっていない。通常、ひとは、帰る場所を作りたがる生き物のような気がする。自分に帰る場所がない状況を想像してみる。つらい。耐えられないかも。さすらうことから降りたくなるかも。水族館劇場の現メンバーは、それでもなお、芝居を続けることを選んだひとたちなんだ。

 

だから、2015年の春ごろ、ライターとして取材をさせていただいた縁で面識のあった水族館劇場の作・演出の桃山邑さんから「静岡で公演をすることになったんだけど、記録係としてついてくる?」と連絡があったとき、「まじっすか! 行きます!」と答えたのでした。

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その3

 

静岡公演は「兇状旅」と銘打たれていた。駿河といえば清水次郎長の土地だし、江戸を追われたわけありが親分を頼って流れて行く、というイメージなのだろうとは思ったが、しかし「兇状」とはどういう意味だと辞書をひいたら、「凶悪な罪を犯した事実」とある。『黒船前後』に登場するのは、引っ越し魔葛飾北斎の娘阿榮、土佐の異端絵師・絵金、江戸を追放された七代目市川團十郎。追われた者たちに託した思いは毛利嘉孝氏と桃山さんの対談に詳しいのでそちらを読んでほしいのですが、それにしたって、彼らの、そして水族館劇場の罪状ってなんなんだろう。

劇団のツアーに同行できる機会なんてめったにないぞと勇んだはいいものの、劇団員が東京から静岡へと移動する公演前日は、富山で取材の予定が入っていた。記録係なのだから行きの道中から随行したかったのだけど、賃労働をしなくては食べていけない。ごめんなさい……と思いつつ、夕方富山駅で北陸新幹線に飛び乗り、東京をかすめて東海道新幹線で静岡に向かう。静岡の勧進元、つまり制作を務めた近藤夫妻のご自宅がその日の一座の宿だった。私もそこにまぎれこませてもらう。ミーティングを終えて、就寝。私は女優さんたちと同じ部屋に寝床をもらった。静まっているが、隣のひとが眠りに落ちているかどうかはわからない。音響の松林彩さんは女優さんたちから離れて、荷物置き場の部屋で機材と添い寝するように丸くなっていた。

松林さんは、学者であろうが出版社の社長であろうがかかわった者は遠慮なしに舞台に上げてしまう水族館劇場にあって、劇団員でありながら役者になることをかたくなに拒否しているひとだ。現メンバーの中では二番目に若い。少し前まで映画のキャメラマンをしていた。

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「結局、私がいちばん水族館の芝居を見たかったんですよ。次やれるのかどうかわからない状況も少しは知っていたので、今日やれるんだと思う反面、客入れが始まるぐらいまで、どこか不安だったと思うんです。たとえばあの日、台風で停電してできなくなるということもありうるわけですよね。そういうことも含めて、幕が開くまでわからない。途中でもわからない。ありがとうございましたとお辞儀をして、拍手をいただくまで、わからないわけですよ。厳密なことを言えば」

これは言うべきではないと思うけどと前置きして、一瞬お客さん目線で芝居する役者たちに見入ってしまって、音を出すのをとちったところがあると告白した。でも、結果としてFreakyShow史上2番目に多い102人のお客さんを集めた『黒船前後』は、ラストシーンまで滞りなく上演され、役者たちはありがとうございましたとお辞儀をして、拍手をもらったのだった。

 

翌日、静岡駅で解散したあと、松林さんはひとり東海道線を由比で降り、広重美術館を目指した。「海が見たいな、見えるかなと思ったんだけど、1本内側の道を歩いちゃったんですよね。でも潮の匂いがしていた」。人影のまばらな館内で広重の描いた東海道を見ながら十分な時間を過ごすと、美術館を出て東へ、蒲原へ向かって歩いた。

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「公演のことというよりは、役者が演じた阿榮や絵金や、安政の大獄で歌舞伎などの芸事がやっているような表現のしかたが排除されている時代にもがきながら一度江戸を離れるというひとがいっぱいいたわけで、そういうひとたちが何を思ってここを歩いたのか。潮の匂いや風を感じていたのかなみたいなことは、ちょっと考えてました」

まさに兇状旅ですね。悪いことをして江戸を追われたひとたち、みたいな。

「そういう気分にはなりました。悪いことしてないと思うんだけどね(笑)」

その4

 

2トントラック満載の荷物がすべて運び込まれると、A4の紙が2枚、壁に貼られた。その日建てる小屋の図面である。FreakyShowはライブハウスなので、南東の角に演奏のためのステージが三角コーナー状に設けられている。西の一面はバーカウンター。バーカウンターの手前に四角い柱。北東の角に楽屋スペースがある。劇場やスタジオのように真四角ではないため、うまくやらないと死角ができる。図面を見ると、フロアの東側半分と三角形のステージを使って変形の舞台をつくろうとしているようだった。

 

役者たちが動き始め、単管パイプを組み立て始めた。腰道具が重そうだ。単管パイプを交差させ、クランプをかませてジョイントさせていく。ドリルドライバーの音が響く(インパクトドライバーだったかもしれない。が、私にはその違いがわからない)。「左門!」と桃山さんの怒声が鳴る。「左門! ここはどうなってる!」「左門! どうすんだ!」「左門!」。ひぃ、現場こわい! 免疫のない私は首をすくめながら、きっとこの左門さんが今回の現場責任者なのだろう、ということは番頭格みたいな感じのひとかな?と思って目で探したら、意外なことに年若な青年だった。劇団でいちばん若い、まだ20代の役者だ。

 

早く建て込みを終えて、本番前に通し稽古をしなくてはいけない。人手は少しでも多いほうがいいだろうと、私も軍手を借りてパイプを持ち上げようとしたが、「手を出すな!」と桃山さんに怒られた。今思えば「怪我をするといけないし、慣れないと大変だから、気を使わないでいいよ」というやさしさも込みなのだが、そんなこと慮る余裕はない。こっちも普段なら「いや、手伝います!」とか言っていい子ぶろうとするところだが、おとなしくフロアの隅に引っ込んだ。本当に怪我や事故の危険があると思ったから。インターンにきた学生に「じゃあこれやってみて~」などと言ってキッザニアのお仕事体験よろしくやらせてあげるような、なまっちょろい現場じゃないのだ。

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七ツ森左門さんは、鬼の現場監督の怒鳴り声にも慌てふためくことなく飄々としていた……ように私には見えた。なんだこのひとは。大物か? 大物なのか? 同じく役者の臼井星絢さんらと打ち合わせながら、作業を進めていく。ちなみに、臼井さんと左門さんは、芝居の中では、それぞれ長屋の熊五郎と八五郎の役でコンビで出てくる。左門さん演じる八は、みんなにあんぽんたんだの馬鹿だの言われ、イカサマ博打で身ぐるみはがされ、あげく女房の孕んだ子が自分の子じゃないと判明するがなんだかんだで言いくるめられるという、なんともナイーヴな青年である。

 

短い昼休憩をのぞいて、役者たちは7、8時間ぶっ続けで立ち働いた。単管パイプを縦横に組み上げてできた構造に黒い幕が何重にもかけられ、持ち込んだ照明ががっちりと吊るされ、舞台奥に美術セットが配置された。例年の本公演と比べればそりゃスケールは小さいけれど、たしかに水族館劇場の小屋だった。

 

「たった1時間半ぐらいの芝居のためにその何倍もの時間と労力を使う。そういうところが僕はすごく好きです。無駄なことのように思われるかもしれないけど、いいなあというか、非常に贅沢なことだと思います」

東京で会った左門さんは相変わらず飄々としていた。それにしても、せめて3回か4回公演があればまだしも、1回きりのために何時間も肉体労働をするなんて。建て込みはだれかにやってもらって、もしくはもっと簡単な舞台美術にして、もっと芝居の稽古をしたいと思いませんかと水を向けてみると、「でも僕は作業するのすごく好きで。役者よりも作業が好きなぐらい。水族館やってるとそうなっちゃうんですよね」と答えた。

 

そういえば、以前、「旅するカタリ」というイベントが東京芸大北千住キャンパスで開かれた際、シンポジウムで桃山さんは「建築は芸能である」と言っていた。舞台と客席にある結界がある、だからそれを取り払いたい、とも。よくわかんないけどそうだとしたらやっぱり、時間はかかるしへとへとになるけど、ハコの中に小屋を掛けるようなことは必要だったのか、と思う。「作業するのが好き」という左門さんの言葉は、水族館劇場が正しく“芸能としての建築”をやっているということかもしれない。桃山さんは、好きなようにしていいですよと言って朝早くから鍵を開けてくれたFreakyShowの店長さんにとても感謝しているようだった。

 

しかし左門さんはあくまでも役者である。役者としての野心はないのだろうか。

「『黒船前後』の臼井さんとの、だんだんまくしたてていくような掛け合いは好きでしたね。でも、何年か前に、やっぱり臼井さんと二人のシーンがあって、すごく褒められたことがあるんですけど、でもね、わかんないんですよ。なんとなくわかるんですけど、わかんなくて。自分でできたかなと思うとそうでもないし、こんなに不確かなものかっていう」

作業はやっただけかたちになって、目に見えるからわかりやすくていい、と言った。でも、次の言葉でやっぱり役者なんだなと思った。

「役者は、やる前はね、すごい、やっぱりあんまり好きじゃないなとか思うんですけどね。稽古が始まりだすと、もう、そんなことはどうでもよくなるんです」

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その5

 

作業開始から約4時間。昼餉の時間にさしかかった。「じゃあ俺、弁当買いに行ってくるから」とお使いを買って出たのは作・演出の桃山邑さんだった。桃山さんは両手にいっぱいビニール袋をぶら下げて帰ってきた。静岡弁当というお弁当屋さんのあみ焼き弁当が九つ、蒸し野菜のマリネサラダとライスのセットが二つ。私にもあみ焼き弁当をひとつ渡していただいた。蓋を開けると、タレをからめて炭火で焼いた豚肉が、ごはんが見えないぐらいびっしりと敷き詰められている。朝から休みなく働き続けていたので(といっても私はほとんど役に立っていないのだが)、そのビジュアルに急激に食欲がわいた。

静岡弁当は1976年創業の両替町の名物店で、地元では有名なのだそうだ。飲んだあとの〆に欠かせないとか、新幹線に乗る前にわざわざ買いに行くというひともいるらしい。不思議なのは全国展開はおろか首都圏に出店のひとつもしてないローカルな弁当屋の存在をなぜ桃山さんが知っていたかということで、適当にコンビニ弁当ですませてもよさそうなものなのに、ちゃんとおいしいものを探し当ててみんなのために調達する。さらに、肉が苦手なメンバーのためにはわざわざ野菜のおかずを用意する。ちらっと見たけどそっちもかなりおいしそうだった。

たとえばテレビの現場では、弁当の発注なんていうのはADの仕事だ。どんな弁当を選ぶかで「センスがいい」だの「悪い」だの言われる。ちょっと気の利いた若者だったらそういうところも先輩や大御所とのコミュニケーションのきっかけにするんだろうが、私はそういうときに100パーセントはずす鈍くさい自分をわかっているし、「おまえセンスないなあ」とかいじられたときにうまくジョークにして返せないこともわかっているので、下っ端として弁当を選ぶなんて恐怖体験でしかない。水族館劇場では、リーダーの桃山さん自らみんなの弁当を買いに行くのだった。しかも濃やかにひとりひとりの好みを把握して。

 

そしてもうひとり、「みんな大丈夫? 食べてる?」と心配してまわっているひとがいた。風兄字内(ふぁにー・うない)さん。看板女優の千代次さんと双璧をなす、水族館劇場の中核を担う女優さんである。『水族館劇場のほうへ』(羽鳥書店、2013年)によれば、1995年の「東京軍艦島」から水族館劇場に参加。現メンバーのなかでは桃山さん、千代次さんに次いで長い劇団歴を持つ。FreakyShowの隅っこからその姿を目で追いながら、もしだれか食の進んでいないひとがいたら真っ先に気づくのがこの方なんだろうな、と思う。ただ、それにしては、風兄さん自身にちゃんと食べてる気配がない。というか、このひとは、芝居という霞を食べて生きながらえているのではないだろうか。そう思わせる雰囲気があった。

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『黒船前後』という演目は、さすらい姉妹 寄せ場路上巡業2014-2015で上演された『un ga yokerya——落語版マイフェアレディ』をベースに、時代背景や登場人物の設定を変えて改作されたものだ。花売りのおせいが北斎の娘阿榮に、肥桶やの雛助が江戸を追われた市川海老蔵の仮の姿に、隠亡焼き(死者の火葬をするひと)の正体が土佐の絵金にと設定が複雑になっているが、貧乏長屋で繰り広げられる人情喜劇であることは同じ。それよりも芝居上の大きな違いは、短いプロローグとエピローグが付け加えられたことだと思う。開幕暗転後、照明がつくと、千代次さん演じる鳥追いと、風兄さん演じる巡礼が二人、そこに立っている。鳥追いは目がみえないらしく、巡礼の肩に手をかけている。

 

「最初に、稽古で、千代次がふっとここに(自分の左肩に触れて)手を添えた瞬間。あれがもう、ね……」

 

静岡はどうでしたかという問いかけに返ってきたその言葉には、風兄さんの20年が詰まっていた。前にも書いたが、水族館劇場は存続の危機に立っていた。根城を失ったこともそうだが、同じ頃に何人かの主要メンバーがやめていったのだ。私はその頃ただの一観客であって、何があったかは知らない。劇団が分裂したという事実があり、風兄さんが今、千代次さんや桃山さんと一緒にいるということを知っているだけである。「ああ、素敵な女優さんだなと思って見ていた千代次と今をともにしていて、その千代次が、ふっとこう、同じ場にね、いるっていう。なんか、そういうことだよね」。

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貧乏長屋の物語は大団円を迎え、住人総出で「運が良けりゃ〜 空を飛べる〜」と歌い踊る。そこで幕、とはならない。静まった舞台に、再び鳥追いと巡礼が現れる。風の音。海猫の啼き声。怒ったように啼いてるかと聞く巡礼に、鳥追いは、もうなにもしなくていいよといっていると答える。

たった11行の短いエピローグだが、じつは本番前日まで、巡礼のセリフがひとつ、抜けていた。「ごめんファニー、ここにもう一個入るからって(桃山さんに)言われて」。だからおそらく、ほかの劇団員が持っている台本には書かれておらず、風兄さんの台本だけに手書きでこう書き込まれているはずだ。

 

巡礼  しまいじたくの時間かえ

 

「うわーと思いましたよね。若い頃から、一回一回が今しかないというふうにやってはきてるけど、近頃はまた違った感覚が自分の中にあるっていうか、これで終わりかもしれないというのが入り込んできているので、それがそのまま言葉として書かれると、こう……うん……」。破れかぶれの明るさから一転しての終わりの予感。私にとっては、このプロローグとエピローグがあることによって『un ga yokerya』と『黒船前後』はまったく別の作品である。黒船前後の時代、新しい世が始まるその影で人知れず退場していったものがたくさんあるのだろう。自分たちもそんなふうに消えていくのかもしれない。

 

風兄さんの胸にしのびこんだ終わりの予感を吹き払ったのは、観客の拍手だった。

 

「芝居をやることもなかなか苦痛であったりするんだけど……あのとき、拍手をしていた、あのひとたちと次にいこうっていうふうに思えた」

 

静岡公演は、一夜限りとはいえれっきとした地方巡業だった。前日の夜、当日の朝、昼、夜の打ち上げ、翌朝の朝食と、劇団員は5回もみんなで飯を食った。しかし風兄さんは、「寝食をともにするって、いちばん苦手なこと」だと言う。食べることと排泄に恥じらいを感じるとも言った。だけど芝居の中では、人間なんてごうつくばりで、食って出して死んでいく存在だということをだれよりも体現する。身も蓋もないほどに。阿榮がつぶやく。キレイが汚い、汚いがキレイ。

「だいたいひとつ終わったらやめたくなるんです。それが、そうならなかったのは不思議でした。それはなんだろう。これで終わらないぞと思ってるのかな。わからない。これで終わりたいこれで終わりたいと思っていたのに」

その6

 

客入れの時刻に、ぐっと話を戻します。

開場したのはたしか、定刻の午後7時を少しすぎた頃だった。エレベーターホールで開場を待っていたお客さんが順番にライブハウスの中に入っていく。椅子席ではなく、床にマットが敷いてあって、その上に腰を下ろすスタイル。歌舞伎で言う平土間である。

予約の状況である程度は予測がつくが、蓋を開けてみなければわからないのが芝居の観客数。少ないのも寂しいが、満員でお帰りいただくのはもっとしのびない。どんどん中に入っていただくが、エレベーターがチーンと開くたびにお客さんが降りてくる。ついに桃山さんがトラメガをつかんだ。

 

芝居の客入れがいかに大事かは、ある程度芝居を見るようになってからようやくわかったことだ。近代的な劇場で商業演劇を見る場合、◎列◎番と書かれたチケットを握って行くことになる。座席を案内するのは劇場スタッフで、特に気にとめたことはなかった(もちろんお客様をスムーズにご案内するのは大事な仕事ではある)。だけど、水族館のような小屋掛け芝居やテント芝居、あるいは独自に劇場を運営している劇団の芝居などを経験するうちに、客入れも演出のひとつなんだなと思うようになってきた。

席が決まっていないので、できるだけスムーズに、多くのひとに座っていただかないといけない。客の側からすると、芝居を見るぞ〜!と気持ちがワクワクと盛り上がっていく時間で、そこで嫌な思いをすることほどつまらないことはない。大御所と呼ばれるようになっても客入れには自分が立つという演出家はけっこういる。某大物演出家は「役者が言うより俺が言うほうがお客が素直に詰めてくれるんだよ」と冗談めかして言っていたが、それも本当だろうけど、やはり足を運んでくれたお客さんと触れ合うのが純粋にうれしいのだろうなとも思う。

 

桃山さんがトラメガをつかんだ。客を煽りつつ、席を詰めさせていく。せーのよいしょ!で尻をずらす。あいたところにあとから来たお客さんが腰を下ろしていく。客入れ自体がひとつのショーみたいだ。ただ、たいていの場合桃山さんは作業シャツにニッカボッカの現場スタイルで、さらにキャップを目深にかぶってサングラスをかけている(夜でも室内でも)ので、はじめてのひとはちょっとぎょっとするかもしれない。蛇足と知りつつ付け加えれば、少女漫画の例を持ち出すまでもなく、サングラスはシャイなキャラクターの象徴である。

 

土間も埋まってきたな、お客さん全員入るんだろうか、と心配になってきた頃、幕の内側では、桃山さんが七ツ森左門さんと臼井星絢さんに声をかけていた。「舞台上にお客さんあげるぞ、いいか?」。舞台上に席をつくるというのだ。歌舞伎で言う羅漢席だ。左門さんは、上手側(客席から見て右側)は役者の動線にはならないと判断し、「大丈夫です」と答えた。

松竹が運営する「歌舞伎美人」というウエブサイトによれば、江戸時代の芝居小屋には、舞台下手後方に「羅漢台(一階)や吉野(二階)などと呼ばれる、随時設置された追い込みの席」が設けられていたとある。(辻和子 http://www.kabuki-bito.jp/special/kabuki_column/makuaisuzume/vol8.html)。また、故十八代目中村勘三郎丈が立ち上げた平成中村座でもしばしば羅漢席が出る。幕の内側の役者の動きまで間近に見られる、一風変わった特等席。芝居小屋を描いた錦絵なんかを見ると(「歌川豊国 芝居小屋」で検索!)、土間から桟敷からひとがぎゅうぎゅう詰めで、さすがにあんなには詰め込まないだろう、多少デフォルメされてるはずだと思っていたのだが、この日の客入れを見て、逆に、あれはリアルなのかもしれないと思えてきた。だって、昔の芝居小屋のひとたちも、この日の水族館劇場と同じように、最初から羅漢席をつくろうと考えていたわけではなく、お客さんいっぱいきちゃって入らないから舞台に乗せちゃえ!と考えたに違いないのだ。「◎列◎番」にはない、芝居小屋ならではの醍醐味である。

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『黒船前後』では、羅漢席の目の前で、与太郎(若旦那)が扮する伊右衛門と、とめが扮するお岩で、東海道四谷怪談らしき一場面が演じられる。江戸から逃げてきて肥桶やに身をやつしている市川團十郎が、おしのびでやってくる老中に見せるために二人にやらせているのである(ややこしい!)。

本番前日の深夜。とめとしてお岩を演じる増田千珠さんは、一心にスマホの画面に見入っていた。動画サイトで見つけた坂東玉三郎の番町皿屋敷。「四谷怪談ではないんだけど、見つけて、はまってしまったんです」。なるほど、あのシーンがあったからかと思って、わたしは、玉三郎さんのどんなところを参考にしようと思ったんですか?と尋ねた。

「お皿を割っちゃうじゃないですか。わたし、筋を全然知らなくて、わざとじゃなくて事故で割れちゃったんだろうな、それを斬るなんてひどいひとだって思ってたんですけど、でもお殿様の気持ちを試すために、どうしようどうしようって、それで、考えついたのがお皿を割ることだったんですよね。お皿を割ったひとは打ち首だっていう。それで、試すんです。柱にばんってわざとぶつけるんです。それをたまたま同僚が見てて、密告するんですよね。それで、ちょうど割れたところにおじいさんがきて、どうしたことだ、そそうしましたって。そのときはいいんだけど、言いにくいことをお殿様にいうあたりとか……どこっていうか、とにかく全部、話せば足りないくらい」

「かわいいけど、でもちょっとこわいところがある。試そうなんてひどいじゃないですか。それで結局旦那さんが、ちょっと気がヘンになっていくんですよね。そこまで追い込んじゃう」

一生懸命説明しようとしてくれる増田さんの言葉を聞きながら、このひとは何か技術的なことを盗んで真似ようなんていう了見で動画を見ていたわけではないんだと思った。性根を見ようとしている。そしてこれはある取材で間接的に聞き知ったことだが、「役の性根」を何よりも大切にしているのがほかならぬ玉三郎丈そのひとなのだった。

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「かわいいけど、ちょっとこわいところがある」というのは、増田さんが演じたとめにも当てはまる。とめは、長屋の住人八五郎の女房で、おなかに子供がいる。が、この子の父親は大店伊勢屋の若旦那(演じるのはチェン・スウリーさん)だというのだ。しかしそれも嘘で、本当は大旦那の子だということが明かされる。

増田さんの実質的な水族館劇場デビューは2007年の「花綵の島嶼へ(はなづなのしまじまへ)」で演じた「はっちゃん」だった。「初枝とかそういうことじゃなくて、台本に『はっちゃん』って書いてあるんです。はっちゃんのお母さんもはっちゃんって呼ばれてる。知的発達が遅れている女の子で、17歳なんだけど、言動が幼稚園生なみ」。その次に演じた「ひいちゃん」も、やはり同じようなイノセントな女の子だった。「でも、はっちゃんとひいちゃんは全然、別のひとでしょう。別のひとだから、やっぱり、はっちゃんははっちゃん、ひいちゃんはひいちゃん」。そう言う増田さんにとって、自分と子供を守るためには旦那も騙す逞しいとめの役柄は新鮮だったのかもしれない。

「『風とともに去りぬ』のスカーレットは、自分の中で悪だったんです。メラニーのほうがずっと好きだった。でも、結婚して、マレーシアで暮らして、自分が年を重ねることで、だんだん理解できるようになったんです。スカーレットの逞しさが。そういう経験がなかったら、このとめもいまだに嫌いだったかもしれない。でも、とめはある意味、普通の女性なんですよね」

 

「南北も近松もありゃしない!」と歌舞伎へのオマージュたっぷりだったあのシーン。しかしまあ、そこは即席の羅漢席、幕の内側はどたばたしていたようで、とめが座るあたりにお客さんがドリンクの入ったプラスチックのコップを置いていたらしい。「ちょっと倒しちゃったんですよね。ごめんなさいと思いながら、芝居を続けました。お客さんもあわてたようで、終わったあとでそのひとがごめんなさいって言いにきてくださったんですが、大丈夫大丈夫って。そこでやるとは思わなかったと思いますしね」。

伊右衛門の帯はほどけるし、お岩の着物は着崩れてるし。稽古の時間も短かったし、大変でしたよね。

「それでも、間に合わなくても、完璧でなくても、とにかく出るんです。どんな状態であろうとも」