じゃ、ごろつきと呼ぶんだね

桃山邑

いまでは高価になってしまったダガタの旅する写真集『抗体』の渋谷リブロ最後の一冊を買い求めたとき、この世界的な写真家が娼婦やごろつき、麻薬中毒者たち社会からこぼれおちた者らを求めて港から港、社会正義なき戦争地帯を流浪する、「重力」と「痛み」にみずから埋もれてゆくようなまなざしをカメラに装填していることにあらためて衝撃を受けた。人間と自然のいとなみとを対置させながら歴史のなかに編み込むことで連綿と続く地上の生を掬いあげる『創世記』の写真家、サルガドの対極に位置するともいえるダガタが、世の虚偽の破壊者であることにそれほど共鳴していたわけではない。東京で撮られたというリストカットをくりかえす少女の写真も、よりよき世界をのぞんでシャッターを切ったとはとうてい思えない無残な情感を色濃くただよわせている。だがこの世界の半分が、なかば強制的な暴力によって社会の表舞台から退場させられたひとびとの生のいとなみでなりたっている現実をうつしだしていることだけは鮮やかに証明している。
ひるがえってじぶんたちはどのような靴を履いてまとわりつく芝居の泥地をあるいてきたのだろうか。無常を引き受けることによってのみ救われるなにかがあるというのはファンタズムにすぎない。はてしない野戦攻城を継起しつづけるたびにかんがえることは、こんなことではなにも終わらないという感情。達成感でもない。断念でもない。骰子一擲。身もこころも投企して不思議な果実を欲望の牙でむさぼるための藝能。日々追いつめられてゆく暮らしのなかで言葉にいいあらわせない感情や世界との違和をときほどく鍵としての藝能。その鍵を踏み惑うこころの難民たちに指し示すこと。これこそが河原者とみずからを呼んで羞じない、誇り高い化外によってしか成しえない困難な仕事なのではないだろうか。社会常識の埒外にあると断定され江戸を追われた一年後。同じ境内で演ずる舞台を奉納芝居と呼ぶのなら、じぶんたちはみずからをごろつきと呼ぶはじまりへとさかのぼらなければならないだろう。
「日本の国家組織に先立って、藝能者には團體があった。その歴史をしらべると日本の奴隷階級の起源・変化・固定のさまがよく訣る。日本には良民と浮浪民がいる。そのうかれ人が藝人なのである。その歴史が訣るだけでも、藝能はやりがひがある。かぶきものといふのは、このごろつきの團體の謂で、結局無頼漢の運動が日本藝能史となるのである」折口信夫の『日本藝能史ノート』の冒頭に記されたこの言葉に幾度も幾度も励まされてきた。
能は態。まねび。古に海をわたってきたひとびとが列島在来のものを整理したといい、しかるのちに日本在来のものに影響されて混然となりもとにもどっていったとある。かつて筑豊のぼた山の裾野に繁殖した芒を駆逐した外来種の背高泡立草が、ふたたび芒によって勢力を縮小されつつあるようなもので、生態系全般にいえるのなら人間社会もまたしかり。集団の生成と衰退のくりかえしの謎も勘所はこのあたりにあるとみている。

四年前にあれほど「絆」を連呼し、火山列島の庶民がいだきつづけてきた神や自然へのおおいなる畏怖を唇にのぼらせながら、いつのまにか景気回復のお題目と世界版図のなかでの船頭を妄想し、他人ごとでしかない宗教戦争までひきうける誤断の男にすりよってしまう民意と砂漠の地を逃げ惑う難民の心情にはたしかに千里の径庭がよこたわっているだろう。けれど彼方此方に絶望的な違いをみるのではなく、おなじく囚われの民であるという意識を持ち続けなければ、ごろつきにはなれない。そういう意味でのみじぶんは生涯ギャングのたぐいである。ごろつきがものを考えてはならない理由などどこにもない。いまだ人種差別の残るアメリカ南部ジョージアで育った作家フラナリー・オコナーは最初の短編集で登場人物の強盗にこういわせる。「なぜ人生がこうなのか、考えもしない奴とわけをしりたがる奴がいるもんさ」殺される善人は前者。銃弾を打ち込むギャングは後者。そこに成熟した市民社会から導き出される思考はつけいる隙もない。過去も出自も問わない。藝能者としてのごろつきにただひとつ必要なのものは、どんな局面にいたってもすぐれた舞台をあきらめない精神である。精神を賦活するために不可欠な技術と冷静な判断である。
昨年夏、幾度目かのお家騒動があって以来、じぶんたちはふたつに分裂していった。ほぼ同時に身体の変調をきたし、あたらしい気分を涵養しようと折角した。ひとのこころの変節を考え抜くということが、軋みをあげて胸の裡を襲ってくる悲しみとたび重なった。あたらしいメンバーには集団の分裂の理由のわかるわけもない。だが水族館劇場がリニア的な時間区分で存立しているのではない以上できうるかぎり、ごろつきとしての世界観、すなわち流浪するということでたちはだかる国家という軛と闘い続ける意思は共有してもう一度旅にでかけるつもりである。
社会学者として、フランスでは最重要人物と目されながら日本では無視されつづけたロベール・カステルをなぜいまごろになって呼び戻そうとしているのか。ミシェル・フーコーの影響をうけた精神医学の学究として出発しながら、娘の銀行強盗、政治的亡命を受け、ながいながい沈黙のはてに上梓した『社会問題の変容』は賃金労働が中世までいかに差別と結びついていたかを余すところなく暴いて全く別の位相に浮上してきた、折口信夫とならぶ、ごろつきのバイブルだ。賃金労働は流浪と密接に関連し、土地を持たぬ民ゆえに、国家にとっては租税の対象にならない、したがって身分は最低の「この世に用なき者」なのだ。
地上を旅する者たちはやむにやまれず群れる。かつて竹中労は「人間は弱いから群れるのではない。群れるから弱いのだ」と自立を促したが、時代は彼の思惑をとうに超えカステルのいう「国家を全面否定するのではなく互いに支え合うサポートが必要」とする終末的予測に彩られているいることを否定できないほど息苦しくなっている。だからこそ藝能を武器にする闘いの意味が生まれ、ちから弱い個人の集合体がもとめられてくるのだろう。幾度も言葉にしてきたがこれから時代はまちがいなく集団を要請してくる。集団とはひとりひとりの考えや思惑の相違をみとめながら最後の一線でひとつになる紐帯を徹底してこころに決めておくことである。不毛ともいえる、人間関係の貧しさについてはほんとうに正しいことなど誰もいえない。終わりなき銀河に旅立つために。ファンタズムとともに生きることを撰んだ現代河原者にはこうつきつめてもらいたい。–———-じゃごろつきと呼ぶんだね。