天幕芝居の原像
翠羅臼
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私は先の「フィッシュボーン」號外に、「現代の傾奇者を標榜する水族館劇場が辿ってきたのは、あたかも江戸期の歌舞伎者らに導かれているような道程である。しかも官許の櫓を揚げた江戸三座ではなく、いわゆる宮地芝居の小屋者として一貫して公共の地ではなく神社仏閣に営巣の地を求め続けてきた」と書き記した。

それでは、私が想い描く江戸の<小屋者>とは一体どのような存在だったのか。その手掛かりを、三十年近い下積みを経て、無学で名を馳せるも齢四十九にしてようやく立役者となった、四世鶴屋南北の若き時代を偲びつつ手繰り寄せてみたい。

私の南北体験の嚆矢は、発見の会による韓日フェスティバルで上演された「東海道四谷怪談」(1984年)だった。私自身に与えられた役はお岩の父親の四谷左門であり、幕開け直後に伊右衛門によって殺害されたため、瞬時にしてあえなく舞台から消え去ったのであるが、芝居は出色の出来栄えだった。芥正彦の田宮伊右衛門、火田栓子のお岩、牧口元美の宅悦、天竺五郎の伊藤喜兵衛、桜井大造の直助権平、大谷蛮天門の佐藤与茂七など、今思い起こしても胸が躍るような見事な役者振りだった。ならば、南北に対する私の狂疾的なこだわりは、故・瓜生良介師から吹き込まれたのだと云えようか。

爾来、夢一蔟稽古場公演「盟三五大切」(85年)、山谷越冬闘争(85-86)での「天竺徳兵衛山谷散乱」(風の旅団、発見の会、夢一蔟らの合同公演)、そして時を経て「鶴屋南北逆曼荼羅」(2012年)などで逢い交えてきた鶴屋南北の存在はいつも私の胸奥から消えることはなかった。南北ではないが、「風流三昧」(1992年)という桜井大造が山谷で企画したページェントで、水族館劇場のホンを書かせてもらった江戸芝居「廓噺泪橋野辺歌」を玉姫公園で上演後、「花魁道中」で束の間でも泪橋交差点を占拠したことも忘れ難い。曲馬舘時代からひそかに座右の書としていた林家辰三郎氏の「歌舞伎以前」の一節「やがて土一揆が上京邊の土倉を襲撃しようとすると(略)両者は相對峙する状態になった。ところがそのとき、見物衆のなかから放火する者があらわれて、侍所軍はたちまち總崩れとなり、ついに賄賂も返却して撤兵のやむなきにいたった。當時の記録『建内記』にはこの放火者が、「河原者」であったことを註している。」の心魂があの占拠空間には細やかではあれ確かに息吹いていた。

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つとに知られるように、鶴屋南北は非人頭弾左衛門の支配下にあった紺屋の倅として、芝居町の堺町(中村座)と葺屋町(市村座)とに囲まれた、現在の日本橋に近い裏町の新乗物町で生まれた。父親の伊三郎は紺屋を務めるとともに、市村座の下回りもやっていたといわれている。拙作「南北逆曼荼羅」の大詰め近く、南北は髷師友九郎にこう語る。「知っての通り、おれの親父は奈落で綱を引く穴番だった。この市村座でセリの綱が切れ、下敷きになって死んだ。セリの上にいたなぁ瀬川菊乃丞だ。餓鬼のおれは奈落に潜り込んで、それを見ていたんだ。目を開けたまま子途切れた父っあんの顔が忘れられねぇ。この市村座にゃあ、父っあん始め、奈落でうごめく芝居者の亡霊が五万と憑いているんだ・・・」

ことの真偽は定かではない。けれども、立作者になった後も、見世物小屋や菰垂れ芝居の巣窟だった采女ガ原に足しげく通った南北の、奈落で栄華を支える者らへの心情がこのようなものであったことはきっぱりと想像できる。若き南北が桜田治助門下を破門になったのも、采女ガ原の菰垂れ芝居に多くのホンを書いたからだという説にも肯首できる。下積みだろうと、当時は江戸三座に勤める作者が菰垂れ芝居にホンを渡すことは作者の命取りにもなるご法度だった。立作者になってからも、南北は見世物小屋の場を芝居に組み入れることを決して止めなかった。出世作となった「天竺徳兵衛韓噺」にしても序幕は見世物小屋の場であり、「彩入御伽草紙」、「絵本合法衢」、「浮世柄比翼稲妻」など、代表作のほぼすべてに見世物小屋の場が登場するといっても過言ではない。南北は大御所となってからも、「紺屋の源」と呼ばれていた時分の河原者としての出自を消して忘れることがなかったのだ。

このような南北と、鬘師であり見世物の興行師であった謎の人物友九郎との関係を知り得たのは故・郡司正勝氏の「鶴屋南北‐かぶきが生んだ無教養の表現主義」によってだった。友九郎についての文献は、郡司氏が同書に引用している「武江年表(天保元年版)」の他には、皆川博子氏の小編などを除きほどんど見当たらない。それには「この友九郎、金主にして葺屋町河岸子芝居に、金玉娘と云を見世物とする。容儀よき娘なるが、前陰より陰嚢の如きもの出でゝ前は塞がれり、みめよき故に大に評判ありて見物多かりき、友九郎これを妾とし、彼腫物を療治するとて、傭医にあやまたれて死せりとかや。」と記されており、更には文化三年、葺屋町河岸から出火して芝居町を総なめした「友九郎火事」の火元であった、とある。

友九郎のもう一つの稼業であった鬘師は当時、鬢を売る女性が少ないため、三ノ輪の浄閑寺など、お女郎の投げ込み寺に忍び込んで鬢を切っていたとの風聞が流れていたという。上記の芝居で、友九郎は金玉娘のお絹に語る。「おれの臭いは死の臭いだ。湯灌場回って死体の山から女の髪をこそぎ取り、裏手の堀で洗って漉いて、羽二重に植え込む髪の毛の一本ゝに女の執念が渦巻いてらァ。サァ嗅ぎねえ、死臭にまみれたこの髢、これが歌舞伎舞台の奈落に咲く死人花の色香だワ。」

友九郎が南北芝居の鬘師を勤めていたという筋立てである。とすると「東海道四谷怪談」の名高いお岩髪梳きの場も友九郎の仕事ということになる。「友九郎火事」で焼け出された友九郎が南北と共に高砂町に移り住んだという史実は記録されているので、それは確かだろうと思われる。更に、大道具師・長谷川勘兵衛も一枚かんでいる筈だ。郡司氏は前掲書で「友九郎と南北と大道具の仕掛けの棟梁長谷川勘兵衛が見世物を通じてつながっていたのではあるまいか」と推論している。若き南北は采女ガ原の菰垂れ芝居で、同じ河原者である見世物師や大道具師と肝胆あい照らす仲を契り、そこで培った絆によって後年、外連役者の大名題として一世を風靡した尾上松助を得て、混沌の時代を撃つ目眩めく悪の華を咲かせたのだ。大輪の芽を育んだ揺籃が菰垂れ芝居(宮地芝居)、現代の天幕芝居の原像であった。

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このように江戸の傾奇者や芝居小屋の極私的な原像(幻像)の簡単な素描を試みたが、水族館劇場にその命脈が連綿と流れていることに今更のように気付かされる。桃山邑はこう語る。「なんとなくいましめられたもの。みないふりをしたほうが賢明なもの。いかがわしさをそそるもの。それらはタブーというレッテルを張られたひとびとから遠ざけられてゆく。都合の悪い真実から眼を逸らさせるために。(中略)ならば安定と平穏を維持する為政者のからくりを曝くのが藝能者の本願なのではないか。」(フィッシュボーン號外)そのような存在は、これまで私が携わってきた芝居のモデルとなったいわゆる世間師の系譜、見世物師、覧会屋、テキ屋、ロバパン売り、サーカス一座、蛇遣い、犬殺し、当たり屋、流しのオルガン弾き、チンドン屋など公序良俗から禁忌の対象とされてきた流れ者らの姿と符合する。一言でいうと彼らはエロス的存在である。歌舞伎の元祖・阿国と名古屋山三の末裔に属する浮かれ人らの群れである。その魂魄を胸に秘め、雨に打たれ、風に晒されながら藝能の荊の道を辿り続ける水族館劇場は、当代を風靡する傾奇者の白眉と言えよう。

蛇足になるが、パレスチナ・キャラバンでヨルダン川西岸を「アザリアのピノッキオ」で巡演した際、芝居が跳ねると観客は私たちの一座に<مجنون!>(majnun)と声をかけて拍手喝采した。意味を尋ねると<クレージー>だという。その謂れはカイスという青年がライラ(夜)という名の美少女に恋するあまり反逆者となって狂疾をきたした「ライラとマジュヌーン」という中東の古典的悲恋物語にある。それは藝能者に喝采する常套句であり、エリッククラプトンもこの物語を主題にした「レイラ」というタイトルのアルバムを出しているという。ならば、反逆とエロスへのこのようなマジュヌーン(狂疾者)を<傾奇者>という江戸言葉に翻訳することで、その時の私は得心したのだった。